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院長の震災体験のエピソードと緑町診療所への思い

掲載日:2024.01.29

クリニックを開設した際に重視したテーマの一つが災害対策でした。
過去の3つの震災に関して私が皆さんに伝えたい、思い出深いエピソードと、
そこから学んだ、医療法人ミライエの防災災害対策への取り組みについてお話しします。

阪神大震災

私が災害について深く考えるきっかけとなったのは、阪神大震災です。医学部1年生の時、1995年1月17日阪神大震災が発生しました。横倒しになった高速道路や燃え盛る神戸の街の様子がテレビに映し出され、まるで映画のワンシーンのようで非常に鮮明に記憶しています。
学生の冬休みを利用して、地元のNGOから被災地に派遣されました。
電車でわずか30分の大阪では日常生活が営まれていましたが大阪から神戸に入ると、途端に倒れたり傾いた建物がたくさん目に飛び込んできました。その格差に愕然としました。

被災地では約2週間、被災地での炊き出しや高齢者の自宅の片付けを行ったのは、私にとって忘れられない経験となりました。当時はインターネットや携帯電話が普及していなかったため、避難所に設置された臨時の電話を使い、家族と連絡を取る被災者の長い行列がありました。
高齢者の自宅片付けでは、水道やトイレなどのライフラインが破壊され、部屋に汚物が溜まっているなど、言葉に尽くせない状況がありました。また倒壊した家から家族の思い出が詰まったお正月用の食器や、現金よりも子供の表彰状を探してほしいと頼まれるなど、被災者の人生に触れる様々な経験をしました。

神戸には長田区という地域があります。そこは、もともと在日の朝鮮や中国系の方を始め、20数カ国の外国籍の方が入り混じって生活しているエリアでした。この地域は古い町並みが残っていましたが、震災で大火災が発生し、一面焼け野原となりました。住民票を持たない外国人には支援が届かず、その方達に炊き出しも行いました。

夜になり焼け野原に立つと向こう側には地震で被害を受けなかったマンションが明かりを灯しているのがはっきりと見え、かつて隣同士にあった普通の日常生活が一瞬で切り離されるのだと、災害の恐ろしさを強く感じました。
この経験から大学で医学を学ぶ中でも、災害医療に対する思いが常に心にありました。

東日本大震災

次は東日本大震災についてです。
その頃、私は栃木県にある自治医科大学地域医療学センターで臨床助教を務め、診療と教育にあたっていました。
2011年3月10日、同僚と医師室でカンファレンスをしているとき、その瞬間が訪れました。最初に比較的大きめの地震が来て、すぐに収まりました。みんなで席を立とうとした時に、さらに激しい揺れが続きました。揺れは長く続いてなかなかおさまらず、頭上の棚に置いてあった古いパソコンのモニターが横にすっ飛んでいき、死の恐怖を強く感じました。最大震度6強の地震で、8階建ての病棟にいた私たちは、すぐに患者さんの無事を確認し、余震に備えました。
病棟の至る所から、患者さんやスタッフの悲鳴が響き渡りました。見ると患者さんのテレビから津波の様子が続々と流れてきました。
仙台市の海沿いが次々と真黒い津波に飲み込まれ、建物や農業用ハウスをなぎ倒し、車の列を飲み込んでいきました。津波に飲み込まれたプロパンガスが白い煙を吹き、時々チカチカと火がついて燃えながら流れていきました。先ほど死の恐怖を感じた自分と、まさに死に直面している津波に遭われた方々、ここでも災害は一瞬で生死を引き裂いていきました。

翌日からは交代で病棟に泊まり込み、余震対策や診療にあたりました。自治医科大学は非常用電源として自家発電装置が機能していましたが、周囲は停電で真っ暗でした。近くに東北地方を縦断する国道4号線があり、東北地方から関東地方へ避難する車の列が一直線にライトをつけて走っているのが見えました。そこから暗闇の中で唯一光のついている自治医科大学の方に助けを求める車の列もありました。
テレビやインターネットでは、東北地方の被災地の様子に加え、福島第一原発の危機的な状況も伝えられていました。
地震から数日の間に原発の建物が次々と爆発し、大量の放射性物質を含む煙が立ち上がるのを目の当たりにしました。私は大学の敷地に住んでおり、宿舎に帰るために屋外を歩くだけでも大量の放射線を浴びているような気がして、長くは生きられないかもしれないと思いました。この国は終わるのではないか、ここで死ぬかも知れないと覚悟を決めながらも、患者さんや困っている地域の人を見捨てることができず、ヒロイズムと諦めに似た感情を持ちながら毎日戦場に向かうような気持ちでいました。

私は4月ごろに医療支援の一員として南三陸町に入りました。三陸地方の美しいリアス式海岸は内陸に向かって狭まり、津波の高さが増す構造になっており、最大で23メートルの巨大な津波が町を襲いました。

街はまるで爆撃に遭ったかのように跡形もなくなっており、所々残ったビルの上には漁船や自動車が引っかかっていました。

街の高台にある新興住宅地に設置されたスポーツセンターが避難所兼活動拠点になり、そこから周辺地域への医療巡回を行いました。

患者情報であるカルテやお薬手帳は、津波によって病院ごと流されてしまっており、避難所に集まる患者さんの情報も把握できていない状況でした。その頃は皆さん携帯電話やインターネットを持っていましたが、どのような患者さんがどこにいるか全く把握できていませんでした。医療支援は組織化されていましたが、各団体はそれぞれの書式で簡易カルテを作成しており、中には後の集計統計のために患者カルテを持ち帰る団体もありました。最初にバラバラだった避難所も次第に集約化されたり、移転したりしたため、その都度医療チームが新たにカルテを作り直すこともありました。
そのため被災者が仮設住宅に入る際も、医療情報が整理されておらず、移転先で再びカルテを作り直すことが生じていました。このように医療情報が連続していないことが、被災者や患者さんに大きな不利益を生じさせたのです。

災害に備えて、かかりつけ医が地域の患者さんの医療情報を管理する必要があり、患者さんに対しても、何かあった際に自身の医療情報を持ち歩くようにする必要があると痛感しました。このアイデアは後に、当院のカルテ管理システムと患者さん用の「あなたのカルテ」に結びつくことになりました。

避難所での生活は、発生した病気の患者さんだけでなく、衛生管理や栄養など公衆衛生的なサポートも必要になります。しかしながら、そのような人材が各避難所に配置されるわけではなく、避難所の状況は様々でした。

被災者の方々も避難所で暮らすことで大きなストレスにさらされます。特に災害によって認知症が進行した高齢者や、知的障害のある家族を持つ被災者家族は「迷惑がかかるから」と避難所に入らずに、車の中で生活を続ける人もいました。避難所内に比べて、これらの方々の生活環境や健康状態の悪化は明らかでした。そして災害時であるが故に、これらの方々に専門的な医療や薬が届けられずにいました。

それを見て、いつか災害時でも避難所の患者さんに届く医療として、「オンライン診療」ができないかと考え始めました。

北海道胆振東部大地震

北海道に戻ってきて倶知安厚生病院町で勤務している2018年9月6日に北海道胆振東部大地震が発生。北海道全体が大停電に見舞われました。幸い雪の降る季節ではなかったものの、人間の生活に電気が必要とされることが身に染みてわかりました。

この大停電で困ったのは、いわゆる開業医さんです。クリニックには、患者さんに必要とされる薬が常に冷蔵庫にストックされています。非常用電源設備は高価で、小規模なクリニックでは備えているところは少ないです。
温度変化に非常に弱いこれらの薬たちは、大停電が起きたために薬剤廃棄せざるを得ませんでした。患者さんの診療データを集めた電子カルテも、電力がなければ役に立たなくなります。

医療機関を開設する以上、地域住民にとってなくてはならないインフラになります。平時と災害時どんな時でもクリニックとして機能するために、停電しない事はとても大事なことだと思いました。これらの経験をもとに当院では開業時に太陽光発電と非常用蓄電池設備を導入しました。

最後に
災害対策は、単に物資や設備の準備だけではなく、地域コミュニティとの連携、情報共有、人材育成にも注力する必要があると痛感しています。
3つの震災の経験、これらの経験を通じて、医療提供者としてだけでなく、地域コミュニティの一員として災害に立ち向かう重要性を学びました。

私たち医療法人ミライエ緑町診療所はそこから得た学びを生かしてこれからもみなさんをささえる医療の構築をしてゆきます。